お客様あっての商いであることに日々感謝し、顧客満足を第一に精進してまいります。
お客様と生産者様の信用を大切に考え、果物産業の発展に努めます。
お互いの信頼を広げ、企業の繁栄と社員の幸福を追求します。
千疋屋総本店三代目・代次郎の妹キヨは、父である二代目・文蔵の時代に番頭として腕を振るった谷治郎吉に嫁いだ。
治郎吉は商才に長けており、文蔵から厚い信頼を勝ち得ていた。商売人の娘として育ったキヨは、自らも根っからの商売人であったと言われる。ある日キヨは「分家させてほしい」と文蔵に切り出した。文蔵はキヨの夫、治郎吉のそれまでの千疋屋への貢献と人柄を見込み、治郎吉への暖簾分けを許した。
明治14年(1881年)1月、神田区松枝町から出た火は折からの強風にあおられ、あっという間に東神田から日本橋馬喰町を焼き尽くし、さらに本所深川にまで延焼した。この火事は明治期最大の大火となった。
その焼け跡がまだ生々しい傷跡をとどめていたころ、治郎吉とキヨは店(千疋屋総本店日本橋本店)を出るとやおら肩を並べて歩き出した。日本橋を渡り終えたところで、キヨは夫に声を掛けた。「この辺でいいかね」。治郎吉は後ろを振り返り、「まだ本店(千疋屋総本店)が見えるよ。もうちょっと歩こう」と答えた。再び2人は歩き出した。しばらくして立ち止まると、治郎吉はもう一度来た道を振り返り、こう言った。「本店(千疋屋総本店)も見えないし、この辺でいいだろう。ここで店を持とう」。そこは現在の京橋、当時の中橋であった。こうして京橋千疋屋の歴史は始まった。(当時は中橋千疋屋)
治郎吉とキヨは中橋広小路に中橋広小路店を開店した。近くには江戸時代からにぎわう大根河岸青物市場があり、さらに料亭や船宿などが立ち並び、花柳界を形成していた。大正3年(1914年)には東京の表玄関となる東京駅が開業。通りには人々が絶えることなく往来し、中橋広小路店は大いに繁盛した。
後に丸ビルに出店し、数寄屋橋際で果物食堂を経営するなど、手広く商売を行い、京橋千疋屋は昭和3年(1928年)に宮内省御用達を拝命することとなります。
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1955年(昭和30年)頃の東京駅名店街店。
当時は東京駅八重洲口地上改札口すぐ横に店舗を構えていた。(現在は地下1階)
1960年(昭和35年頃)京橋本店外観
1960年(昭和35年)頃の京橋本店の店内。
果物の需要が非常に多かったこともあり、所狭しと果物を陳列していた。当時は果物のみならずワインやウイスキーなどの酒類も多く取り扱っていた。
1965年(昭和40年頃)原宿店外観
1965年(昭和40年)オープン当初の原宿店店内。
当時としてはトレンドを取り入れた近代的なイメージの内装だった。
1965年(昭和40年)オープン当初の原宿店店内。
当時としてはトレンドを取り入れた近代的なイメージの内装だった。
1965年(昭和40年)オープン当初の原宿店店内。
当時としてはトレンドを取り入れた近代的なイメージの内装だった。
1965年(昭和40年)八重洲地下街開業と同時にオープンした八重洲大地下街店。
東京駅待望の地下街ということもあり、多くのお客様が押し寄せた。
1965年(昭和40年)八重洲地下街開業と同時にオープンした八重洲大地下街店。
東京駅待望の地下街ということもあり、多くのお客様が押し寄せた。
1965年(昭和40年頃)八重洲大地下街店
1965年(昭和40年頃)八重洲大地下街店
1975年(昭和50年頃)原宿店外観
1975年(昭和50年頃)原宿店外観
1975年(昭和50年)頃の原宿店店内。
当時の社長がアメリカ本土のフルーツショップを視察して客席の目の前にフルーツを陳列している様子を参考にして店舗に導入した。
1975年(昭和50年)頃の原宿店店内。
カウンター席と床面には台湾から取り寄せた大理石を使用してラグジュアリー感を演出していた。
1975年(昭和50年)頃の原宿店店内。
目の前でお客様が召し上がるフルーツを選びその場で調理して、スタッフがカウンター越しにトークを交えながらフルーツの美味しさを演出をしていた。
1982年(昭和57年頃)京橋本店外観
平成初期頃の元原宿店外観
平成初期頃の元原宿店外観
平成初期頃の東京駅八重洲地下中央改札正面名店街店